アルゼンチンにおける初期邦人

 移民という複雑きわまるような現象は、その歴史的背景も考慮せずには考えられない。うちの爺さん、または父は、貧乏だったから、もしくは新天地でより良い可能性を求めたくて移民として来た、と言えば、それは単なる個人的な、偶然的な出来事に聞こえる。しかし、そんな偶然というのは、我らの無知を呼ぶようなものである。その当時の状況をあるていど追求していくと、多くの人が同じ環境におかれ、同じような運命をたどったことが分かる。
 現在のアルゼンチン領土における日本人の足跡は16世紀末まで遡れる。大陸発見の時代が終わり、ヨーロッパ大国が新しい世界を制覇しようとした時代だった。
 史実によると、“日本人種”とみなされる者が1596年に当地を踏み、コルドバの町で奴隷として売られている。この年、巨大な力を持つ豊臣秀吉が第二の朝鮮出兵を命じ多くの朝鮮人を死に追いやり、また、海の向こうで多くの日本人の運命が惨めに捨て去られた。当時、アルゼンチン領土まで含むペルー副王領において、フランシスコ・ハポンだけでなく、17世紀初頭、20人ほどの“日本人種土人”が新世界に連れて来られ、ペルーのリマに“奴隷”として住んでいた。
 日本が鎖国して約250年のち、徳川幕府の末期頃、最初の公式旅券発行を受けたのは、旅芸人の一行だった。まさに明治時代初期、軽業師一行がブエノスアイレスで興行している。
 アルゼンチンに定住した最初の日本人移民は、1886年に着いた牧野金蔵だといわれている。密航による入国で、以前ハポンが奴隷として売られ、自由の身になったコルドバに住みついた。当時アルゼンチンは国体を整えている時期で、その柱になったのが1880年に制定された移民法で、広い無人の国土に多くの移民の導入を図っていた。しかし、法令そのものと上層階級が目論んでいたものは、ヨーロッパ移民、それも北欧系移民の奨励だった。このあと、榛葉贇雄、鳥海忠次郎という二少年が、アルゼンチン海軍の遠洋練習艦サルミエント号で上陸した。友好親善条約が1898年に締結されたあと、初めての移住者だった。鳥海の場合は全く行方がわからず、また榛葉は日本人社会の指導的な人物になった。
 その後1904年初頭、二人の大学卒業生が日本政府から派遣されてきた。古川大斧と丸井三次郎で、これは政府派遣海外実習生の始まりである。さらに翌年、滝波文平が到着したが、日本人貿易・雑貨商の始まりである。滝波は純粋な意味の移民ではなく、神戸に本店を置き、商売の本拠地にしていた。ただ、その子孫はブエノスアイレスで生まれ、そこに住んでいた。
 こうして、アルゼンチンにおける日本人の移住は、基本的に個人、自由渡航であり、ブラジルやペルーのような政府主導の集団計画移住とは異なっていた。こうしたことで、移民元年を密航できた牧野の入国年にするか正式入国の榛葉にするか、尺度が違ってくる。


南米各国から続々と

 日本人移民がアルゼンチンに入ってくる流れは大体、ブラジル、ペルーからの転住者によってつくられたが、これはボリビア、チリ-を経由したものだった。これは戦後も同じように、ボリビア、パラグアイからの転住者の流れがあった。すでに1908年の「笠戸丸組」の転住者の中には沖縄県出身者も含まれていた関係から、その年がアルゼンチンにおける沖縄移民元年となっている。
 ブラジルの日本人移民第一航海の「笠戸丸」船上で、アルゼンチンへ行く何人かの人たちが、その国には将来性があるとそそのかしていた。また、入植地を脱走してサンパウロにたどりついた人たちは、先にアルゼンチンへ行った人たちから朗報を受け取り、さらに南へと転住がつづいた。
「笠戸丸」以後の移民グループも、数においては劣るが、やはり、1910年6月29日着の旅順丸組の転住者もかなりあった。それでも、アルゼンチンからサンパウロに戻った人たちも少なくなく、第二航海組の転住者の数は減少した。すでに当時、マットグロッソ州のプエルト・エスペランサから始まるブラジル・ノロエステ鉄道線工事は開始されていて、アルゼンチンにも鉄道工夫募集に来た。
 ペルーに入った日本人移民のアルゼンチン転住者も多かった。ペルー移民は1899年、790人の契約移民が森田移民会社のチャーター船「佐倉丸」で横浜から出港したときにはじまる。男たちは砂糖キビ耕地で働くことになっていた。しかし、多くの人が気候風土、労働条件や食物と馴染めず死亡者が続出した。また、雇主とのトラブルで耕地から逃亡する人たちが相次いだ。
 1910年、アンデス横断鉄道國際トンネルが完成すると、太平洋岸ルートで来る移民は、チリのバルパライソ経由でアルゼンチンに入国した。これと同じようにペルーから入国する人たちもチリ経由で入った。パスポートのコントロールも厳しくなく、日本人たちはペルー行きの旅券で何の支障もなくアルゼンチンに入国出来た。しかし、快適で滞なく出来るこうした旅行も突然、徒歩で、またはロバに乗って大変苦労する旅行になることもあった。冬期、予告なしに運行中止となる。そこでバルパライソに戻って宿泊するだけの経済的余裕のない日本人移民は、そのまま旅をつづけるほかなかった。


初期移民の労働

 1914年から1920年代半ばまで、職業では工場労働、家庭奉公が多かった。不安定な時期で日本人は職業を転々としていた。
 1920年代中頃をすぎると、洗濯店、カフェー店、郊外では野菜、花卉栽培が増加したが、結局これらの職業が戦前の日本人社会で目立つものになった。日本人移民が増えはじめた頃、ブエノスアイレスはすでに大都会だった。リアチュエロに近い場末のボカ、バラッカスという限られた界隈のコンベンティ-ジョ(長屋)に住み込み、そこから近くの工場に働きに出た。
 工場労働は友人の紹介、あるいは、自分が歩き回って探した。早いうちに起き、そして工場の前で長い列に加わった。採用の選択は工場の現場監督で、日本人が多くの場合優先的に選ばれた。いつも「今仕事ありませんか?」という文句を繰り返していた。「毎日毎日当てどもなく歩き回り、工場の前で施し物を求める乞食のように立ち止った。大きな工場だけでなく、汚れた黒い水のながれるリアチュロ運河近くの工場、プエンテ・アルシ-ナの端にある工場などを歩き回った。夕方になると歩き疲れた足を引きづって、陰鬱な気持になって長屋に戻るのだった」、と1923年に移住した仲宗根文盛は記している。
 家庭奉公が、戦前初期アルゼンチンに来た日本人移民の二番目に多い職業だった。比較的に他の民族社会と異なり、家庭で働いた人は多かった。古川大斧は1904年に農商務省海外実業練習生として来たが、「理由は分からないが、何故か家庭奉公は日本人に取っ付き易い仕事だった」、と1917年に記している。
 1920年代に入ると日本人の間で自動車運転手の仕事が流行した。1910年代はまだ日本人運転手は数えるほどしかいなくて、富豪のお抱え運転手が多かったが、1920年代に入るとタクシー運転手が急増した。初期の運転手として、中原栄吉、山口喜代志、秋葉新一、武田敏美などがいた。そのほか徳元佐助、新垣亀が1915年にタクシー業を始めている。徳元はバセーナ製鉄工場社長の運転手として制服、制帽に皮のゲートルをつけて働いていた。1919年1月の「悲劇の一週間」の折、フロントガラスを割られて命の縮む思いをした逸話がある。


独立経営の確立

 カフェ店が工場労働、家庭奉公、カフェ店の従業員などをした初期日本人移民の最初の独立した目立つ職業だった。「一般的にそれまでは、バラッカスのローチャ鉄工所で、金鎚で叩いて銹を落とす仕事を真黒になってやるほかなかった。貝原さんはカフェ店を経営していたので、ブラジルから来た我々にとってそこで働けるので助かった」、と言うのは、1916年に転住してきた佐賀県出身の井上哲行で、彼はのちエントレリオ州でカフェ店の持主になった。
 日本人経営のカフェ店の始まりは1912年であるが、その2年後、鹿児島出身の蒲池正登(長之助を改名)と佐賀出身の貝原熊蔵、平井勝次ら従兄弟が共営で経営したカフェ東京が永続した最初の店だった。普通、最初のカフェ店経営者は、まずカフェ・パウリスタの下働き、皿洗いから始まり、のち給仕として働いたが、このコーヒー・チェーン店は全国に支店を持ち、パトロンは日本人に好意を持つブラジル人だった。
 カフェ店と並行して日本人に人気のある職業は洗濯店で、それは次第に日本人の代名詞として使われるほど増え、20世紀終りまでつづいた。記録によると最初の洗濯業者は1912年に始めた鳥取出身の小谷初太郎と熊本出身の中村ツタだった。洗染店という名前だったが最初は染物をする業者は少なく、文字通り洗濯とアイロンをする手仕事で、それは次第に機械化されるまでつづいた。まとまった資金なしで、言葉が不自由でも出来る仕事で、日本人の勤勉、手先の器用さに適した職業だった。日本の大学で教えている日系二世の比嘉マルセロ教授によると、家庭奉公の日本人によって作り上げられた清潔好き、礼儀正しさ、勤勉などが、とくに日本人の洗濯店が受け入れられることに大きく影響したという。こうして国民性に適した職業柄全国に広がり、数において増大したが、狭い地域における過当競争から日本人間で、またアルゼンチン同業者との間で、少なからず紛争が起きた。こうした業者の増加は、これまで裕福な階級向けであった職業を大衆化するまでに押し広げた。


パンパでの邦人農業

 アルゼンチンの移民政策に沿って、あるいは、明治の近代化によってはみ出した農民たちが、広大なパンパで牧場を経営する夢を持ってアルゼンチンにやって来た。しかし、わずかに伊藤清蔵、小松慶也、鈴木芳蔵、宇野悟郎などがその夢を実現できただけで、かなりの人たちはただ牧場でぺオン(下働き)、庭園士、牛馬の手入れする雇人として働いた。
 伊藤博士はドイツ留学時代知り合ったドイツ人と結婚し、アルゼンチンに到着するや否や念願の「理想牧場」を作り上げるため8人の農業技術者グループを呼寄せた。しかし、これだけの日本人が集まって働くことの不適切さを指摘する声があり、そのうちの2人だけを受け入れた。その一人が小松でのち独立して自分の牧場を経営した。こうして、自分の身の丈に合わせて、日本人移民は野菜・花卉栽培ですぐれた結果を出した。
 最初の日本人農園は1910年、ブエノスアイレス市の南部近郊、トリスタン・スワ-レスで土地を借り受けて何人かの日本人がキャベツ、ジャガイモ、カボチャ、カリフラーワ-などを栽培した。のち1911年末、16人の日本人グループがブエノスアイレスから350キロの大西洋岸に近いところ、大地主のカルロス・ゲレーロ所有のフアンチョの農園で野菜、果樹、リンゴなどの栽培に従事した。しかし、それほどの需要はなくて出荷にも不便で、この事業は挫折した。最後に試みたのは1913年、星清蔵、松本源八、菅野喜八ら笠戸丸組がF・バレーラで野菜園を共同経営したが、星は1918年メンドーサ州に移って定住した。
 やはり1913年、石川倉次郎、鈴木芳造、渡辺宮雄、岩住玄伍が共営でブエノスアイレス南部近郊、アドロゲー駅の近くで野菜園を始めた。石川は茨城出身で、盛岡高等農林学校で伊藤博士の教え子だったことから岩住とともに伊藤牧場で働くため呼寄せられた8人組のメンバーだった。共営を解いたあと石川は、アドロゲーの隣りブルサコに土地を購入して住みついた。こうした日本人移民の業績によって、肉食中心のアルゼンチン人の日常の食卓に野菜が登場するようになった。
 アルゼンチンの花卉栽培における日本人先駆者たちは、すでに20世紀初期富豪の庭園、あるいは、ブエノスアイレス市立ボタニコ植物園の庭園師として働きはじめ、一人前の資格が認められた。アルゼンチンにおける花卉業界のすぐれた先駆者だった高市茂自身ある時期、柴原耕平とともに言葉が分からないながらもボタニコ植物園で働いた。二人は1919年日本人として初めて、ブエノスアイレス市のペドロ・ゴジェナ街1374番で花卉園を開業している。
 1918年にもう一人のすぐれた花卉専門家、賀集九平が来亜した。北海道出身で学究肌の人として傑出していた。初め、メンドーサ州で果樹栽培に専念しようと考えたが、結局、ブエノスアイレスで花卉栽培を決心した。1921年、兵庫出身の田中数好と共営で明興園を始めた。1928年に在亜日本人園芸会を設立、「園芸の亜爾然丁(アルゼンチン)」という会誌を発行した。1929年1月、日本人園芸村の建設を提唱し、その場所としてエスコバールが選択された。当時そこは首都の北方50キロの地点にある一寒村だったが賀集はそこに明興園の生産拠点を置き、そして別に同年半ば、北海道出身の久木末次郎も資本提供をするサンギネッティという人と共営で花卉園を開いた。これがのち、アルゼンチンの花都となったエスコバールが、日本人花卉業者の集落地となった始まりである。
 元来、花はぜいたく品だった国だが、日本人花卉業者が相次いで増加してその普及したことから、ブエノスアイレスを花の一人当たり需要の大きな都市に仕上げた。賀集がよく語っていたことだが、花卉栽培が生活の糧(かて)になるなど、初期日本人も含めて物笑いの種にしていたものである。


日本植民の試み

 アルゼンチンにおける日本人移民は、たとえばブラジルのように正式な集団労働契約に基づくものではなく、少数だった。おおざっぱに見て全人口の0.01%を越えたことはなく、人口密度の薄い広大な領土に散らばっていた。その上、大方が首都とその近郊に住んでいたが、これは他の国々からの移民も同じで、人口はそこに集中していた。と言っても、日本人移民は国の隅々にまで出かけて運を試したことになる。その証拠に1910年、当時の日置公使がロサリオの製糖工場に140~150人の日本人労働者が働いていたと報告しているが、彼らのほとんどに入国登録記録はなく、奥地の日本人社会の中核を形造っていた。
1914年の国勢調査によると、1,007人の日本人がいたが、一般的に実数はもっと多いという意見で、少なくとも倍はいると見る人もいた。そのうち、664人が首都とブエノスアイレス州に属し、66%に相当した。この調査によると、フフイ州に122人の日本人がいて、ブラジルから1914年5月14日にブエノスアイレス港に上陸し、アルゼンチン北部の州のレデスマ製糖工場で働き出したものだった。
 ブエノスアイレス州で野菜・花卉栽培に当った日本人のほか、漁業に従事するため当時600人ほどの静かな港町だったマルデルプラタ地域に行った日本人たちもいた。漁業はイタリア人とスペイン人の移民が占めていたが、その好意で漁船ホルへ・ニューベリー号を購入、1920年に日亜漁業団を組織した。好調な滑り出しが刺激して、間もなく小資本であったが三つの漁業企業が設立された。
また、州に昇格する前のミショーネスには1914年にブラジルから転住した柏木善吉のように、何人かの日本人がいた。しかし、この州に日本人の植民を推進したのは、鹿児島出身の田中誠之助だった。1915年にこの地域を回った田中は、同胞にとって理想的な場所であると確信、植民地創設の動きを始めた。結局、進展こそしなかったが、彼の情熱的な宣伝は北海道出身の帰山徳治を熱狂させ、のち、この地域に日本人社会の基盤を築くことになった。パラグアイと国境を接している関係から、1936年にそこで設立されたラ・コルメナ植民地に入植した人たちの転住もたくさん受け入れている。戦後になって最初の日本人植民地、ガルアペ-もここに造成されている。
 また、隣州のチャコにも、挫折したけれども日本人たちが導入された植民地作りがあった。ここは1920年代初期、政府が奨励した綿栽培のため2万6250ヘクタールもあるベーレス・サルスフィエルド植民地が設立された時だった。やがて1924年、各国大使館の商務官を招待した特別列車が編成されたが、日本側からは石井忠商務官が参加してこのアイデアに満足、積極的な宣伝に移った。「オーロ・ブランコ(白い金)」と呼ばれていた綿栽培に入植した最初の人たちは、1915年に来亜した上条泰三郎、小林亀代作だった。しかし、綿の値段の大没落、イナゴによる大虫害、非人間的な生活条件、治安の悪さなどがこの計画を失敗へ導いた。やがて日本人植民地は売り払われ、転植させるためコリエンテス州に250ヘクタールを購入、「豊田植民地」を作って移ったが、結局そこでも残ったのは小林亀代作だけだった。
 メンドーサ州では戦後、第二植民地、「アンデス移住地」が設けられた。しかし早い時期から日本人がいたが、いずれも未登録の日本人たちだった。それはこの州がチリと国境を接していて、太平洋岸サイドから徒歩、あるいは、ロバの背に乗ってアンデス越えをして入国する通路になっていたせいでもある。
 1913年8月、笠戸丸組移民で1910年に転住した熊本出身の前田三平が、運転手としてメンドーサに来ている。しかし、この地域の日本人に発展をもたらした人物は、福島出身の星清蔵で、やはり笠戸丸組移民として1908年にブラジルへ渡り、同年アルゼンチンに転住している。妻とともに苦労の連続の生活を送り、やっと1918年にメンドーサに定住した。ロス・ノガレス地域にある400ヘクタールの果樹園の責任者として契約、のち、別の1,000ヘクタールにものぼる果樹園も担当するようになった。
 中央部に位置するコールドバ州にはアルゼンチン定着第1号移民の牧野金蔵が1888年から定住し、アルゼンチン中央鉄道で働き始めた。その後も日本人たちがやって来たが、その中で小柿“ホセー”(通称)は1897年より、牧野同様鉄道で大工として働いていた。金沢清も1917年、雑貨・金物店、写真屋の仕事に進んだ。その翌年、田村一恵は養蜂を始めている。
 1922年になると、在亜日本人会支部が設立されたが、支部員数は30名だった。コスキン高原地域はその気候的条件から、結核療養に適した場所として知られており、結核を患う多くの日本人たちが同地へ移り、伏見兄弟の経営する下宿に泊まった。その後1931年に大西佐一郎、前川雪江、山崎忠直、青木小一郎が発起人となってコスキン救済団を設立、コスキン療養所を組織した。


母国の戦乱へ

 第二次大戦中在アルゼンチンの日本人社会は、反日運動が起こったアメリカ大陸諸国にあったような迫害は受けなかった。米国では多数のドイツ、イタリア、日本の移民たちが強制収容所に収容され、また、いち早くこの3枢軸国に対して断交を宣言したカナダ、ペルー、その他ラテンアメリカ諸国12国では財産が接収された。
 一方、アルゼンチン政府は第二次大戦勃発以来ほとんどその終結まで、農産物輸出国としての経済的有利性、ヨーロッパとの深い絆などの理由から、絶対中立の立場を強く打ち出していた。さらに、アルゼンチン人を盛り上げる伝統的な反米感情があったことも見逃せない。
 やがて、大戦の展開が枢軸国側に不利となると連合国側諸国、とくに米国から圧力がかかり、外交断絶、そして翌年に日本とドイツに対して宣戦布告をせざるを得なった。そこで、外交官とか報道関係者、あるいは枢軸国や企業をスパイ容疑によって逮捕するとか、国外追放という処置を取った。そのほか、企業の財産を差し押さえて敵国性財産管理委員会の下に置き、また教育機関を閉録した。その他、14歳以上の者に1ヵ月に一度所管警察署に出頭することを義務づけ、ある期間旅行をする場合、許可願いをだすように義務づけられていた。
 いずれにしても、錯綜した國際関係の揺れに従ったこまごました問題はあったが、政府当局指示遂行のきびしいコントロールはなかった。たとえば、敵国性学校閉鎖はきびしいものでなく、日本語、ドイツ語に対する当局の干渉も大きな支障などなく、個人の家で巡回授業の形で行われた。また一般的に、当時を経験した人たちの証言によると、いろんな風評、官憲立ち入りを除いて、特別に敵意を持たれることはなかった。それはアルゼンチンの親切な国民性のほか、少数ながらも日本人社会が築きあげてきた正直、勤勉、礼儀正しさが評価された面でもある。示された好意は、とくに1946年、大統領になったペロンの政権時代に目立った。しかし、彼や、取巻きの権勢は何年か前からファシスト的なものとしてよく批判された。敗戦のインパクト、祖国荒廃のニュースはまさに、在留邦人にとって精神的痛手であり、しかも、占領軍によって敷かれた規制によって直接文通も出来なかった。しかし、例えば隣国のブラジルの司法史上最も複雑な事件の一つとされている、同国の日本人社会が勝ち組、負け組に分かれて邦人同士の連続した暗殺があったような、内部の苦難はなかった。
 アルゼンチンの場合、日本人移民の個人的、自然発生的移住という特徴からブラジルのような集団的、計画的な移住と異なり、散在することなく、主として都市中心に進出した。こうして日本人移民はつねにアルゼンチン人と接触することになり、よい事には邦字紙が発行禁止になってもスペイン語新聞を通して、戦線の時報が分かっていた。
 ところで、日本人諸団体が国家の干渉下にありながら運動を組織するなど熱意を実現させた。こうした日系社会の救援物資発送だけでなく、世界の幾多の国に食料を中心に物資を送り届けるマンモス事業を遂行した。エバ救済基金が日本へ贈ったことも戦災困窮者救援活動を組織するなど、祖国へ向けて熱意を実現させたこのほか、日本人社会が送った物資だけでなく、エバ救済基金も大量の救援物資を日本へ贈っている。これはエバ大統領夫人の主宰する社会援助基金で、世界の幾多の国へ救援物資が送り届けられマンモス事業を遂行していた。
 そのほか、日本人がまだ海外へ出ることが出来ない時代、アルゼンチン生まれの二世呼寄せ運動も開始された。これは日本の文化や言語を学ぶため、あるいは、単に親が帰国を準備して送られた子どもたちだった。これは1947年に呼寄せ許可が与えられ、翌年初頭帰国が始まったが、二世だけでなく、近親呼寄せも含まれていた。こうしてアルゼンチンは戦後の日本に最初の移住者受け入れの門戸を開いた国となった。