広島市デジタル移民博物館 ハワイ編

官約移民から私約移民・自由移民・呼び寄せ移民へ

ホノルル移民局
藤間順平 提供

 ハワイへの本格的移民は1885(明治18)年に始まり、日本とハワイ王国との政府間約定書に則った「官約移民」と呼ばれる契約労働移民でした。当時ハワイではサトウキビ産業が隆盛し、労働力不足が深刻でした。第一回移民船シティ・オブ・トーキョー号の出航から10年間で26回、累計約29,000人が渡航しました。そのうち、広島県からは11,000余人が渡航し、総人数の38.2パーセントを占めました。
 1893(明治26)年にはハワイ王国がアメリカ人入植者によって転覆させられたため、移民事業は日本政府の手を離れ、1894(明治27)年からは民間の移民会社に委ねられました。この移民は「私約移民」と呼ばれ、総数は40,000人を超えました。
 ところが1898(明治31)年、ハワイがアメリカ合衆国に併合され、1900(明治33)年には合衆国の準州となったため、契約労働が禁止になりました。1900年以降の移民は契約に縛られない「自由移民」となり、1908(明治41)年に日米紳士協約が締結されて移民が制限されるまで続きました。この間に約68,000人が渡航しました。その後、合衆国で1924年の移民法が成立して日本人移民が全面禁止されるまで、「呼び寄せ移民」として、「写真花嫁」をふくむ血縁者約62,000人がハワイの土を踏みました。
 1924(大正13)年にハワイ在住の広島県出身者は30,000人を超え、日本人人口の最大の人数でした。

 

サトウキビ・プランテーション労働と都市への進出

製糖工場
広島市所蔵

 初期の日本人移民にとって、ハワイ移民はあくまでも錦衣帰郷を目的とした出稼ぎであって、ハワイでの生活は一時的な腰掛にすぎませんでした。特に官約移民の時代には、移民たちはハワイ到着後すぐに契約先のプランテーションに分散、配置され、激しい労働に明け暮れる日々でした。長時間労働を強いられ、太陽が照りつける中、サトウキビの伐採や運搬などは体力的に辛く、サトウキビの鋭い葉で体を傷つけることもありました。
 そうした中、他国からの労働者の服装や日本の手甲・脚絆などを参考に、日本から持ち込んだ着物はハワイでのプランテーション労働に適した作業服に改良されていきました。
 やがて多くの日本人移民はさらなる成功を求めて、ホノルルやヒロなどの都会に移住しました。理髪店や大工、仕立屋といった技術職が多数でしたが、レストランやホテル、貿易会社、農園などの実業経営も行われました。また白人家庭で働く人もいました。
 ハワイ島コナで収穫されるコナ・コーヒーは香りが高く生産量が少ないことから、高級品として知られていますが、1900(明治33)年にコーヒー価格が世界的に暴落したため、日本人移民が請け負って栽培するようになったもので、現在に至っています。

 

日系人社会の形成

ヒロ本願寺新築本堂前記念写真
藤間順平 提供

 自由移民の時代になると、渡航費や医療費などを移民側が負担しなければならなくなり、故郷に錦を飾るに十分な蓄えを作ることが難しくなりました。そこで、故郷への送金を続けながらハワイに定住する人が増えていきました。呼び寄せ移民の時代には、故郷に写真を送り花嫁を紹介してもらう写真結婚によって花嫁を呼び寄せて家庭を築きました。「1924年の移民法」によって日本からの入国が禁止されると、さらに定住志向が強まりました。
 ハワイ生まれの二世は地元の公立学校に通うようになり、次第に日本語を話さなくなり、両親との会話が不自由になっていきました。各地に日本語学校が設立され、親たちは帰国後に備え、また故郷の日本を忘れないように、放課後に子どもを日本語学校に送りました。
 『日布時事』や『布哇報知』などの日本語新聞も多数刊行され、多くの仏教寺院、キリスト教教会、さらに「布哇日本人会」なども組織され、日本人移民社会が発展していきました。
 1898(明治31)年、広島県出身者が集まってホノルルに「広島県人互救会」が設立されました。広島の『芸備日日新聞』は、有名な毛利元就の故事を引いて、広島県人の団結を祝う記事を掲載しました。また、広島への訪問団を派遣するなど故郷との交流が図られました。

 

排日運動と太平洋戦争

サンタ・フェ日系人収容所
加藤キクエ 提供

 アメリカ本土では日本人移民が急激に増えて排日感情が高まり、入国許可が下りにくくなっていきました。そこで一旦ハワイに渡り、ハワイから本土に転航する人が多く出ましたが、1907(明治40)年には転航禁止となりました。また1908年の日米紳士協約によって再渡航者と移住者の血縁者以外の新規の労働移住は禁止となりました。その後、写真結婚を非難する声が上がり、経済的競合と相まって排日運動が強化され、排日移民法として知られている「1924年の移民法」が成立しました。
 ハワイでは1920(大正9)年、日本人はオアフ島のプランテーションで賃金引き上げを求めて大規模なストライキを起こし、また同時期に成立した日本語学校規制法に反対してついに1922(大正11)年に訴訟を起こしました。その結果、アメリカ本土と比べると、穏やかだったハワイの人種関係も緊張し、排日運動が起こりました。
 1930年代後半には、日米関係が悪化するにつれ、日系人は母国日本と定住地アメリカとの板挟みに苦しみました。太平洋戦争が勃発すると、ハワイでも一部の日本人指導者(日系人人口の0.9%)が拘束されてアメリカ本土の収容所に移送されました。一方ハワイの二世は、愛国心を証明するために第100大隊に志願、あるいは第442戦闘部隊に徴兵され、多くの犠牲を払いました。

 

多文化社会ハワイにおける移民の生活

マウイ島での盆踊り
田原一久 撮影

 ハワイのサトウキビ・プランテーションでは、日本人だけでなく中国人、ポルトガル人、プエルトリコ人、韓国朝鮮人、フィリピン人など、様々な国からの労働者が肩をならべて働いていました。そこでは地元「ローカル」文化が生れました。例えば、それぞれが持ち寄った弁当からおかずを分け合うようになり、この習慣は「ミックスプレート」と呼ばれるご飯と様々なエスニックフードをミックスした料理として現在でも親しまれています。このように多様な文化が混在するハワイでは、ハワイ人の伝統である「アロハ精神」を土台として、異なる文化を互いに受け入れあう寛容な態度が根付き、ハワイ特有の文化が形成されていきました。特に戦後は日系人も含めて、他民族間の結婚率が高く、多様な生活様式が混在する文化を形成しました。
 その一方、日本人移民は日本文化に誇りを持ち、その保存と継承にも力を入れてきました。日本語新聞、日本語によるラジオやテレビ放送が生活の中に溶け込み、夏には盆踊りや灯篭流しが、そして正月には餅つきやお節料理、初詣といった年中行事が、現在も盛んにおこなわれています。また家の中で靴を脱ぐ習慣など、日系社会からハワイの地元文化へと根付いたものもあります。